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​1. そもそもまちづくりへの希望は

多様性:

 赤坂地区や周辺の虎ノ門・六本木・溜池・紀尾井町・乃木坂・青山などには、

すでに多くの​再開発地区が存在します。タワービルも珍しくありません。多くは、

地下鉄駅の周辺やもともと官庁に近いビジネス街であったと思います。賑わいや

利便性・国際都市との闘いなど、それなりの意義はあるとも思えます。それでも切り捨てられた人々はいたでしょう。

 私どもの六丁目地区は、戦後、赤坂のいわば表舞台を支える職人・商店などが多く住む庶民的な居住区であったと思われます。高度成長・バブル崩壊を経て住居地区のサラリーマン化・小店舗の雑居ビル化・小規模不動産経営など少しずつ姿を変えてきたように思えます。それでも昔からの地元住民・商店の流れも色濃く残存しております。一方、新しく戸建て住宅をつくり移り住んだ方々もいらっしゃいます。緩やかに変化はしております。

 赤坂の一角にそのような街があってもよいのではないでしょうか。すべて画一的な再開発地区では都市として退屈であり、また都市を襲う災害にも一面的に被害を受け弱点をさらけだすことになるのではないでしょうか。被害が分散されない危険性が高いと思われます。しなやかで強靭な街づくりは「多様性」にあるのではないでしょうか。住む人も多様な人々の方が将来性があります。

 

歴史性:

 赤坂の街は、徳川家康ご入府に尽力した日本橋伝馬町のひとびとが、今の元赤坂地区に、土地を拝領にあづかったところから始まったと聞いております。当町会のこのあたりの地域は元禄時代に拝領になった新町地区の最後の区域で新町五丁目と呼ばれるようになったようです。赤坂は、江戸城に近く、上は御三家(紀伊・尾張)・譜代(井伊)、外様(黒田、毛利など)の上級武家屋敷、旗本屋敷や下級旗本・藩士、お庭番などの武家階層と 江戸城で庶務的仕事をする茶坊主などの人々、そして職人・商人の住む町人と混在する地区であったようです。このように上下多様な人々の住む町として発展して、それは明治以降、昭和、平成と上下多様なひとが住み、町場でも現在22町会が独立的背景を持ち運営されていることからもうかがえます。土地の区割りも江戸時代を色濃く残しております。このような街を、大規模再開発で壊してしまっては、うすぺらな街に朽ちてゆくころになるのではないでしょうか。名も知らぬ職人・商人・流れ者にも歴史はあるのです。さらにいえば、社会には多様な人々が必要なのです。

​緩やかな持続的発展:

そうはいっても、技術や経済の発展のなかで街は変化してゆきます。その中で私たちは適応していかなければなりません。しかし、そこには、おそらく一つのみの正解はないのではないでしょうか。私共も正解が何なのかはわかりません。ただ、これまでもそうであったように、長い時間をかけて、よく考えて、徐々に変わってゆけばいいのではないでしょうか。私たちは、先人たちの長い歩みのなかで、いまでは相当住みやすい街に住んでいると思わざるをえません。

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